地球に暮らす日々

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中国甘粛省 者来塞村 ―青い瞳の中国人―

      2017/03/14

者来塞の村民は古代ローマ人の末裔か

この村の人々は、いったい何者なのか。関亨と陳正義が、謎解きに困り果てていたときに、思いがけず新しい発見があった。者来塞で大規模な建築遺跡が発見されたのである。専門家の鑑定により、前漢時期の古い町であることがわかった。

この遺跡の発見は、関亨と陳正義をさらに困惑させた。小さな者来塞村から、なぜこんな古代遺跡が発掘されるのか。この遺跡はいったいどんな町だったのか。特異な外見の村人たちと何か関係があるのか。何の解決法も見つからないため、関亨と陳正義は、調査方針を変え、歴史書の中から、この遺跡に関するわずかな手がかりを探った。果たして、書物のある一節が、彼らが興味を引いた。


Photo credit: Dun.can via VisualHunt.com / CC BY

「漢書」に、外国人部隊に関する、重要な手がかりが記載されていた。紀元前36年、前漢の陳湯が率いる軍が匈奴を打つため、シツシの町で大規模な戦闘を繰り広げていたころ、将校たちは、匈奴軍の中に、非常に奇異な容貌を持つ一団を見つけた。彼らは、「挟門魚鱗陣」で、(盾で魚の鱗のような形になるように陣を組み)、前漢軍の攻撃に抵抗した、というのである。

関亨と陳正義は、古代ローマ軍に関する史籍を大量に読み漁ったのち、「挟門魚鱗陣」は、まさに古代ローマ軍特有の作戦方式である、と考えた。そして、そのとき、関亨と陳正義の頭の中に、者来塞の村人たちが、牛の鼻の形の蒸しパンを作り、闘牛をして遊ぶのが思い浮かんだ。地中海沿岸の多くの国々でも、牛に対する崇拝があり、闘牛が好まれている。古代ローマの人々にも、同じ文化があった。それならば、特異な者来塞の村民は、陳湯が連れ帰った古代ローマ兵たちの末裔、ということになる。

古代ローマ軍がどのようにして中国へ来たのか。

関亨は、大胆な推論を導きだしたが、一つ一つの疑問が怒涛のごとく、彼の考えを襲った。誰もが知るとおり、古代ローマ帝国と中国は、遠くかけ離れている。なぜ古代ローマ軍が中国へ来ることになったのか。どんないきさつがあり、彼らは匈奴軍の配下にいたのか。

陳正義と関亨は、次のように考えた。古代ローマ第一師団はパルティア軍の東部防戦を突破した当時、帰路を封鎖されてしまったため、東へ逃げるしかなかった。匈奴が治める地域に進入してしまい、やむなく匈奴に屈服し、傭兵となった。その後、陳湯の捕虜として、前漢に連行され、定住することになったのだと。


Photo credit: fdecomite via Visual hunt / CC BY

「漢書」には、陳湯が捕虜を前漢に連れ来てから間もなく、「リチェン」という名の県が突然、前漢の領土に出現したと記載されている。また、「リチェン」とは、当時、前漢が古代ローマを表わすときの名称だった。ということは、陳湯が連れてきた捕虜は、本当に古代ローマ人だったのだろうか。

関亨と陳正義は、永昌県の県志に、「凉州永昌県南に、リチェン人を住まわせ、県とする」という記載をみつけた。これは、リチェン県の設置と古代ローマ軍の捕虜の密接な関係を、説明している。この歴史書の記載によれば、リチェン県は、ファンナ県南部の照面山ふもとに設置した、とある。照面山とは者来塞にすぐ近い祁連山のことであり、ファンナ県とは今日の永昌県のことである。つまり、歴史書に記載されたリチェン県とは、者来塞のことになる。

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謎解きのゆくえ

奇異な容貌をした者来塞の村民は、歴史上、失踪した古代ローマ兵の末裔である可能性が高い。

リチェン遺跡の発見に、専門家はひどく興奮した。それによって、2000年前、者来塞に古代ローマ軍の一団が、確かに存在し、者来塞の村民が、それら屈強な古代ローマ兵の末裔である、と説明できるからである。しかし時はうつりゆき、2000年の歳月が風と共に過ぎ去った。残念なことに、古代ローマ人のために設置されたリチェン県は、歴史の変化の中で、再び姿を表わすことはない。リチェン人たちは、彼らの記録を少しも残すことなく、唯一、奇異な容貌の子孫を残した。歴史の流れが、世の人々に語る、不可解な物語である。

関亨と陳正義は、者来塞の村民が、歴史上、失踪した古代ローマ兵の末裔である可能性が高いと、理論を通して結論づけた。今日、者来塞の村民はついに、自らの容貌について悩む必要がなくなった。千年以上、彼らの心にあった疑問に、ついに答えが得られた。さらに重要なのは、中国および西洋の史学界を当惑させていた、はるか昔からの謎が、ここにおいて解明されたことである。

(完)

(『科技日報』2006年5月11日記事より)

 関連動画 ご紹介 

中国中央電子台がTV放映したものです。中国語オンリーですが、言葉がわからなくても、者来塞村の様子がよくわかります。
ローマ人というより、宍戸開にそっくりな村人が登場しますよ。

この動画で、ある村人が言った言葉「子供のころのあだ名は、老外(ラオワイ)だった。」というのに、笑ってしまいました。「ラオワイ」とは日本語の「ガイジン」と似たようなニュアンスを持つ中国語のことです。

でも、もう1人の村人の言葉「学校に行ったら、外見のことでからかわれて、2年生からもう行かなくなった。以来、村からほとんど出ない。」というのには、笑えませんでした。

私たちにとっては、珍しく、興味深い外見ですが、本人たちには、深刻な悩みのようです。動画でも、村人たちは、他の村人とは変わった外見に対して、ずっと劣等感を感じていた、と言っています。

しかし、近年は、ローマ人の子孫という売りで、村おこしをしているそうです。

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