地球に暮らす日々

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中国甘粛省 者来塞村 ―古代ローマ人の末裔たち―

      2017/07/10


なんと、中国前漢の時代、古代ローマ軍の一団が、戦闘の末、中国西北部にたどりついて定住し、子孫が今でもその地に暮らしているそうなのです。真偽は、まだ、はっきしていませんが。

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以前勉強していた、中国語のテキスト、(「成功之道 成功編1」北京語言大学出版社)で、このお話を知りました。面白かったので、一部を翻訳して、ご紹介します。

ときどき固有名詞なんかでわからない単語や、日本語フォントで出ない漢字があったので、ちょっと誤魔化して翻訳しています。お許しください。翻訳の精度については、責任を負いません(笑)。

者来塞村に住む古代ローマ人の末裔

甘粛省永昌県の県境にある「者来塞」という村は、もともと異国情緒をおびた古代の砦であった。20世紀に入り、砦はしだいに残骸と化していった。しかし、どのような変遷を遂げようとも、者来塞の人々は、彼ら固有の民族習慣を保ち続けた。ヨーロッパ人が作るピザに似たパンを食べ、牛への伝統的な崇拝を続け、祝日には牛の頭に似せた供え物を作り、手に赤い布を翻し闘牛の祭りを催してきた。

村人たちの中には、代々、ヨーロッパ人に非常によく似た容貌を持つ者がいる。背が高く頑丈な体つき、高い鼻、深い窪みのある目、褐色でウェーブがかった髪、比較的長い体毛、赤みを帯びた肌をしている。

20世紀、90年代。関意権という名の歴史学者が、者来塞の地に踏み入り、者来塞の人々のルーツの謎がついに解き明かされた。

関意権は、1944年、南京金陵大学歴史学部を卒業した。長年にわたり、中央アジアとローマ帝国の東遷を研究していた彼は、1975年、意外にも一つの興味深い発見をした。2000年余り前、東へ遠征中だったローマ軍の一個師団が、突然、消失したというのである。その時期は、中国がリチェン県を置いた時期にほぼ一致する。

リチェンとは、過去において中国人がローマを指す名称であった。それならば、この二つの出来事には、いったいどんな関係があるのだろう?関意権は研究を進める決意をした。

紀元前53年、強大な古代ローマから4万人の兵が、クラッスス統帥に率いられ出征し、パルティア国(現在のイラン)にて広大な土地と大量の金銀財宝を略奪した。しかしながら一年後、敵に包囲されて、惨敗し、生き残った部隊は、アルバニアへ向けて退却した。だが、またしても彼らは不意をつかれ、ペルシャ軍に囲まれてしまった。激戦を経て、クラッススの長男が指揮する第一師団6000人が幸いにも壊滅状況から逃れた。

数年後、ローマ帝国とパルティア国は和議の条約を結び、互いに捕虜の返還を始めた。捕虜返還が終わったのち、ローマの人々はひどく失望することになる。当時、敵の包囲を突破した第一個師団が、影一つ残さずして、消え去っていたからだ。

第一師団の消失は、ローマ史上、懸案事項として、千数百年来、西洋の史学界を悩ませてきた。

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関意権は、研究を進めるうち、中国において、この懸案事項についての新たな歴史的解釈を発見した。2000年前、敵の包囲を突破したローマ帝国第一師団の数千名が、前漢軍の捕虜となり、中国西部へ送られたというのである。

中国の歴史書(漢書・陳湯伝)には次のとおり記載されている。
紀元前36年、漢西域、最高長官である甘延寿と、副校尉である陳湯が、4万人の精鋭兵を率いて西域を出発し、匈奴を討伐した。この出征中、彼らは匈奴軍の配下に、きわめて奇異な傭兵部隊がいるのを見た。ある歴史学者は、そのとき陳湯が見た傭兵部隊は、かつて匈奴に降伏したローマ軍であると考えている。

ここから推測するに、そのとき出現したローマ人部隊は、失踪したローマ第一師団の残軍に違いない。

歴史書には、甘延寿と陳湯はローマ人を捕虜として中国へ連れて行き、定住させた、とある。そして漢政府は、特別な県を設置した。それが、すなわちリチェン県である。また同時にリチェンの町を整えた。リチェンというローマ国を指す言葉を県名とした理由は、一つしかない。そこにローマ人を定住させたからである。

古代リチェンの遺跡さえ見つかれば、リチェンとローマ人の関係が紐解ける。

20世紀80年代、関意権は蘭州を出発し、河西回廊をに沿って西へ、歴史書に書かれていた甘延寿の軍隊が通った道を進み、ローマ人が定住した形跡について実地調査した。

1989年、関意権の長男、関亨も父について、ローマ軍消失の謎を解明する列に加わった。

1996年、蘭州大学歴史学部教授、陳正義の協力のもと、関意権と彼の長男、関亨は、大量の地方歴史書を調べ、50万字の研究文書を整理し、中国西部ゴビ砂漠にある70の古い町の遺跡について、さまざまな方向から、検証を行った。

親子は、甘延寿がローマ人捕虜たちを定住させた地が、今日の甘粛省永昌県であることを、突き止めた。
甘粛省永昌県者来塞こそ、関親子が長年探し求めていた、古代リチェンの町であると、ローマ人捕虜たちが定住した地であると、出土する文物の一つ一つから証明された。

者来塞の村民たちは、中国語を話し、漢族に属するとされているが、400名のうち、200名がヨーロッパ人のような顔だちをしている。先ごろ、中国科学院古人類研究所の研究員が、者来塞の村民300名に対してDNA分析を行ったところ、この村の人々は確実にヨーロッパ人の血を引くことがわかった。

(人民日報海外版、2002年1月25日より)

関連動画のご紹介

英語での動画です。者来塞の村の風景が見れますよ。砂漠の辺境にあるのですが、この村では今、ローマ人の末裔の村ということを呼び物に、観光客を呼んで、村おこしをしています。

村民の皆さんが、ローマ人の衣装を着て、がんばって、パフォーマンスをしている姿が、おもしろいです。

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 - カテゴリー: 中華圏と中国語